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限界営業マンの手記

加害者家族のゆくえをリアルに描いた社会派映画 深田晃司監督作品「よこがお」を見てきた。

どうもこんばんわ。田中です。



まったく更新をしていない当ブログですが、過去に書いた記事の評判がとっても良く、何の気なしにPV数を見てみたら驚愕。何千という人がいろんな検索を経て自分の文章に辿り着き読んで下さっている事は筆舌に尽くし難い感動がございますね。
ということで、仕事でも記事を書くことが非常に多いのですが、タナカ個人は個人として、しっかりと積み重ねて行こうと感じました。


ですので、本日からブログ更新頑張りますので、どうか暖かい目で見守っていただけると嬉しいです。

 
⬇︎ご好評をいただいている記事達⬇︎

 

  

 

 

 

深田晃司監督作品「よこがお」を観て参りました。


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正直なところ、僕は映画通でもないので、この監督をよく存じ上げていませんでした。
 作品に関しても、たまたま映画館に行きたいタイミングと上映時間が被っていただけなので、全くの無知。
 なんとなくあらすじを読んだくらいで、全く身構えておらず、その中で感じたことをぽろぽろと書いて行こうと思います。

 

※この記事は本編のネタバレを含む可能性がございますので、ご了承の上お読みください※

 

あらすじ

 主人公の市子筒井真理子)は訪問看護師で、職場の同僚や利用者家族からも評判が良く、穏やかに日々を過ごしていた。

 訪問先の大石家でも利用者のおばあさんにしっかりと寄り添い、それだけでなく、利用者の孫である基子市川実日子)とサキに勉強を教えたりと、どんな相手にも献身的に向き合っているヘルパーだった。


 利用者の孫である基子は、職に就かず所謂”ニート”だったが、市子の献身的な優しさに触れるたび、憧れを抱くようになり、介護の勉強を始めていた。しかし、さらに憧れ以上の感情を抱くようになってしまう。


 基子サキに勉強を教えていたとある日、市子の甥である辰男須藤蓮)に教科書を持ってきてもらった際、辰男は高校生であるサキを誘拐してしまう。


 幸いか不幸か、被害者のサキ市子辰夫の身内である事に気付いていなかった。基子は気付いていたが、家族に知れてしまうと市子が訪問できなくなると思い、隠し通す事に。


 市子に特別な感情を抱いていた基子市子が婚約しているという事実を知り、激昂。ある日を境にマスコミが市子を必要以上に追いかけてくるようになる。基子がある事ない事をリークしていたのだ。その結果、職場にはいられなくなり、婚約も破棄。つつましくささやかな市子の幸せが終わった。

 行く場所もなく、事件被害者救済の相談を受けるも、「対象は事件被害者のみ」という事実を突きつけられ、さらに絶望。
 そんなところに基子の恋人である和道池松壮亮)がたまたま通りかかる。彼女のささやかな復讐は、始まったのである。

 

みどころと感想

 この映画は時系列で描かれておらず、場面毎に過去と現在を行ったり来たりする。冒頭では美容師である和道を指名し、髪のカラーリングを注文するのですが、壊れる前の市子と壊れた後の市子の二面性が非常に印象的でした。どちらも同一人物の横顔なのにこんなにも違うのか、と思わされる。場面の転換で物語が徐々に進んでいくので、最初はついていけてなかったものの、途中でわかるとかなりゾクッとする。サスペンス要素がとても強かったと思います。

 また、主人公の市子は加害者の身内です。自分は何も罪を犯していないのに、突如として人生が狂っていく恐怖。無実の加害者という存在。それも誰の身にも起こり得るリアルさで、かなり怖い仕上がりです。特にマスコミが家に押しかけてきたシーンが怖かったです。


 映画のテーマは”復讐”なのですが、結論から言うと彼女は”復讐”を完遂しませんでした。元画家であった大石家のおばあさんの絵を見てふと泣いてしまうシーンがあったり、壊れていてもなおその優しさがある。復讐を完遂しない選択こそが、この物悲しく行き場のない復讐劇のゴールであり、それこそが市子の勝利だったのでしょう。

 そこもまた腑に落ちないところではあるのですが、葛藤の末の末にある、そのオチこそがこの映画の醍醐味なんでしょうね。

 

総評

 タイトル通りではありますが、「加害者家族のゆくえ」をリアルに描き、その中で人間の”よこがお”になぞらえ、二面性を表現した社会派の映画になっています。
 話こそはドロドロしているし、全く救いようのないストーリーですが、その画角からは涼しげすらも感じられるのは、主演の筒井さんの為せる技なのでしょうか。えらく感銘を受けました。

 TwitterなどといったSNSが普及し、かつてはテレビ画面越しの大衆の声が大きくなっている現在、正義や正当性を名の下に、庶民は事件に何の関連性ももたず、SNSという拡声器で言葉の暴力の私的制裁を行うようになりました。

”無実の加害者”と言う存在は、日々迫害され、また、それを受け止める場所も多くはないのが現状です。

 では我々は、その現状を受け止めた時に、何が出来るのか?一人一人が考えていかなくてはならない、れっきとした社会問題であると僕は思っています。
 映画を通じ、そういった問題に向き合う人が増えて欲しいなと思いました。